慈氏仏時代の生


■ 弥勒仏(慈氏仏)の出現予言

今から約2500年前、ネパールである赤子が生まれました。この赤子は大きくなりながら人が老いて病になり死んでまた生まれる原理について深い関心を持ちました。そしてこのようなことから生じる悩みや心配事を解決しようとしました。いわゆる「自意識」全般の心配事です。これを煩悩と言います。

そしてこの赤子が35歳になった時、煩悩も一種のエネルギーが起こす作用であることを知るに至りました。そしてそのエネルギーはこの世の中全ての万物の根源である事実も知りました。したがってこの赤子は全ての人々に死ぬその時までこのエネルギーの根源を探すよう教えました。全ての悩みや心配事、すなわち煩悩はその根源状態を突き止めれば消えてなくなっていくからです。あたかもスクリーンに映し出された映像が光という根源状態によって生じるようなものです。


このように根源状態を突き止め煩悩から自由になることを「解脱」と言います。そして解脱の状態を維持し続けることを「涅槃」と言います。涅槃はまさに心の平和であります。

ところでこの赤子は歳を重ねて自身の教えがどこか足りないという事実に気づきました。「エネルギーによって自意識の煩悩が生まれるのであれば、そのエネルギーが煩悩ではない他のものも作ることができるのではないか?」という疑念を抱いたのです。煩悩を起こす自意識がエネルギーによって生じるものであれば、このエネルギーを通じて願うものを全て成すことができるのではないか?という考えに至ったのです。

そしてこの赤子は約2500年後に誰かがまさにこのような問題を解決するだろうということを感じました。そして「願うこと全てを成すことのできる教えを広める者が現れれば、お前たちはその時私の教えを捨てて彼に従え」と予言しました。


そしてその根源エネルギー自らが起こす作用を通じて世の中の万物を創造する教えを広める者を「慈氏仏」と言いました。この「慈」はエネルギー自らが起こす作用という意味です。私たちの国ではこのような慈氏仏を「弥勒」と言います。

このように予言したその赤子の名前はまさにゴータマ・シッダールタです。私たち東洋の人々は彼を「釈迦」と呼びます。

■ 自意識の世の中は無常だが、霊魂の世の中は豊かである


自意識で眺める世の中は全て無常です。この無常という言葉は「実体によって作られたものであるだけで実体ではない」という意味です。つまりあるようですがいつかなくなってしまうという意味です。そのため「はかない」という意味で無常と言います。


しかし根本エネルギー状態で世の中を眺めれば世の中が正しく見えます。根本エネルギーはまさに実体であり、世の中は実体を通じて作られたからです。これを如実知見と言います。在るそのままに正しく見えるという意味です。そしてこのように如実知見の世界を作り出す根本エネルギー状態を「霊魂」と言います。


昔釈迦はまさにこの霊魂の作用を知らなかったのです。そのため釈迦は後日このような「霊魂の作用」を話す人が現れれば彼に従うように話したのです。なぜなら釈迦の教えに従えば、世の中は全て無常であり留まる場所がないからです。そうすると人々は全て世の中に背を向けるようになります。自意識の世の中は根本エネルギーによって捨てなければならないからです。しかし霊魂はなくならず進化し続けます。なぜなら霊魂は根本エネルギーである本質エネルギーの作用であるからです。


根本エネルギー状態である霊魂を正しく使えば、自意識が眺める無常の世の中を光り輝く真理で一杯に満たすことができます。釈迦はおぼろげにそのような世の中に気づいていたのです。自意識の「無常」が貧しさを作るのであれば、霊魂の「創造」は豊かさを作ります。そしてこのように目に見える世の中がいつかなくなる無常であるとすれば、エネルギーの本質である根本エネルギーの世界は永遠に存在する真実です。


そのため釈迦が無常な自意識から離れ真実のエネルギーを探せと言ったとすれば、慈氏仏は真実のエネルギーを通じて真実の世の中を作れと言うでしょう。そして昔から多くの霊的能力者たちがこのような慈氏仏の姿をあらかじめ見て次のような作品を残しました。彼らが見た慈氏仏の姿はあのように帽子をかぶり裸足で歩く姿をした人です。

私たちの心はすなわち宇宙の根本エネルギーと同じです。そのためこのような根本エネルギーをエネルギー本質、あるいは本質エネルギーと言います。したがって仏教では心がすなわち仏というのです。宇宙の根本エネルギーを体得することがすなわち仏陀なのです。

世の中全ての万物はまさにこのような根本エネルギーによって創造されたものです。そしていつか壊れてまた根本エネルギーに還って行きます。そのため世の中は数多くのものが生まれてはなくなっていきますが、かといって決して宇宙は大きくなったり減ったりしません。

そしてこのように存在するエネルギーと作用する波動は結局のところ一体です。私たちはこのような相反する妙な関係を「アフラクサスの原理」と言います。変化する世の中と存在する世界は同じ一つであるという事実を言います。つまり「存在」と「作用」は互いに異なる二つではなく、実は同じ体なのです。

世の中の万物は伸びて行く作用と引き寄せられる作用を同時に行っています。引き寄せられる作用が小さな粒子たちを集めれば、今私たちの目の前に見える物体となり、伸びて行く作用がその粒子たちを引き離せば、その物体は私たちの目から消えて本質に還って行きます。

私たちの心もまた引き寄せられる気運が世の中全てのものを引き付ければ、それは記憶の中に貯蔵されて「自意識」となり、伸びて行く気運である「霊魂」が願う世の中を作れば、それは自身が願う世の中になるのです。そのため自意識が眺める世の中ははかない無常であり、霊魂が創造する世の中は光り輝く価値ある世の中になるのです。

そして世の中はこのように霊魂が願う通りに作られるのです。そしてこれが慈氏仏の話す真実の世界です。

■ 自意識の三つの作用 - 貪・瞋・痴


自意識は引き寄せられる力によって作られました。そのため自意識が欲をかいて世の中をむさぼれば自意識はそれを引き付けようとします。このように自意識が引き付けようとする欲心を貪欲と言います。また自意識が自分と合わない境界に出会いトラブルが起きれば、それを瞋と言います。一種の「震怒」です。


そして自意識は過ぎた記憶の中で作用するので現実を正しく見ることのできない愚かさがあります。そのため私たちは世の中がどのように回っているのかその真実を知ることができません。ただ自分なりの判断をするだけです。心性の良い人は良く眺め、心性の弱い人は無条件譲歩します。このような自意識の愚かさを痴と言います。そしてこれが自意識の三つの作用である「貪・瞋・痴」です。


霊魂は伸びて行く気運であるので自意識のようにあるものをむさぼりません。見て良ければその良いものを霊魂に刻印させ現実世界に現れるようにします。そして自意識は引き寄せられる気運によって生じた「自分という境界」がはっきりしていますが、霊魂は伸びて行く宇宙心であるので「自分という境界」がなくぶつかるトラブルもありません。また自意識が過去を通じて考えて判断するとすれば、霊魂は気感を通じてある現実を正しく見るので愚かさがありません。そのため釈迦のように「貪・瞋・痴」から離れよと教える必要がないのです。


■ 自意識は拘束、霊魂は受容

釈迦の教えを法と言います。一種の原則のようなものです。そのため釈迦は死ぬとき次のような言葉を残しました。

「法を灯とし法を拠り所として、他を拠り所としてはならない」また「教主の話は終わった。かといって教主がいないと考えてはならない。私の説いた教法と戒律が私の死んだあとお前たちの師匠となるだろう」

自意識がこのような法を受け入れたとすれば、それは「道」ではなく「拘束」になるでしょう。なぜなら自意識の中に入っている釈迦の法が物差しとなり合えば受け入れ、合わなければ拒否するからです。しかし慈氏仏は法なしに良ければ無条件受け入れよと話しています。自身が主体となりよければ受け入れて、必要でなければ受け入れなければよいです。

この話は自身の霊魂が関心のあるものは受け入れ、関心のないものは知らないふりをせよという話です。自意識のように法を通じて判断するのではなく、霊魂が主体となって必要であれば受け入れ、必要でなければ受け入れるなという意味です。理解して納得するという自意識自体がすでに誤った計算です。そのため慈氏仏は受け入れるのかどうなのかを決めよと言うのです。

年を取った老人たちは受容性が小さいです。なぜなら彼らが知る世界が新しいものを拒否するからです。しかし若者たちは良ければ無条件受け入れます。そして手でしきりに弄って結局体得します。老人たちはパソコンがよくできず、若者たちが巧みによくできる理由がまさにこれです。

釈迦の「法」が拘束であるとすれば、慈氏仏の「受容」は享受することのできる特権です。法が拘束である理由は自意識が受け入れたからであり、受容が享受できる特権であるのは霊魂が受け入れたからです。自意識は考えて判断する自我ですが、霊魂は行動して動く自我です。

世の中を生きることもまた同じです。釈迦のように法を打ち立て選び出せば持つものがありません。慈氏仏のようにまず受け入れて、そのように受け入れた状態で選り分けなければなりません。このようにまず受け入れた状態であればこそ受け入れた主体、すなわち霊魂がそれを危険なものではないか区別することができるのです。

多くの人々が病に悩まされています。そして彼らは誰かが助けてくれることを願っています。しかし生死の問題は病にあるのではありません。自身の心が引き寄せているのです。健康な姿で愉快に生きれば病もなくなりますが、病になった人を見て病を心配すれば、その心配が自身を死に近づけるのです。つまり心の病が自身を死に結び付け、楽しい心が自身を健康にしてくれるのです。


■ 波動文明と「サイパワー」


自意識はむさぼります。そのため世の中は争いが収まりません。このようにむさぼって生きる世の中の文明を「粒子文明」と言います。一言で目に見えれば持とうとするのです。そしてこれまでの世界はこのように粒子文明時代でした。

しかし慈氏仏の世の中は「波動文明」です。したがって伸びて行く波動を通じて必要なものを創造すればよいのです。願う形体を波動を通じて送れば、その波動と同じ粒子が共鳴を通じて現実に現れるのです。例えば木琴の上の緑茶の葉がある部位の音と同じ音を他の木琴で打てば、緑茶の葉は共鳴を通じて振動し落ちてしまいます。このように波動を通じて現実に影響を及ぼす能力を「サイパワー」と言います。

粒子文明時代には「サイパワー」をよく分からず願うことを「神」や「仏」あるいは「自然」に対し祈っていました。釈迦がこのような祈りをしてはならないと教えていたにも関わらず、自意識たちは供養を行っているのです。

しかしこのような祈りも「サイパワー」を分からずに誤って行えば、願わない結果が現れることもあります。そのため願うことが現実になるようそのメカニズムを明らかにし作ったものがまさに「サイパワー」です。「サイパワー」は天地を動かす「天地手段」なのです。

粒子文明時代にはあるものを奪って持つことができます。しかし波動文明時代には願うものを霊魂に刻印さえすれば、その形体が宇宙に広がって行きそのような形体を世の中に現れるようにします。これがまさに慈氏仏が話す願う世の中を作る法です。

そしてこのような慈氏仏の能力を「サイパワー」と言います。「サイパワー」は「霊魂の力」すなわち伸びて行く本質エネルギーを通じて霊魂に刻印された形体を世の中に創造する「宇宙の力」です。

私たち人間は惜しいことに巡りゆく現実を正しく見ることができません。そして自身の心性を通じてある現実を解析しようとします。そのため間違った情報も詰め込め続ければ、それを本当だと信じます。これがまさに自意識の「虚」であり「迷妄」です。したがって釈迦は世の中を「無常」と言ったのです。

よくできるのかよくできないのかは自意識が妨害をするのかあるいは霊魂が受容するのかにかかっています。自信がなくよく出来ない理由は自意識が妨害するからです。事実霊魂は伸びて行く宇宙心であるので大小の違いはありません。たとえば100万ウォンと1億ウォンの違いはないのです。しかし100万ウォンは稼げそうですが、1億ウォンは何か負担があるとすればそれはまさに自意識のせいです。自意識の判断では自信がないのです。

そのため「サイパワー」をよくやるためにはまず自意識の妨害を退けなければなりません。多角度から考えても「サイパワー」をよくやる人の横で直接体験しなければなりません。なぜならそのようにしてこそ自意識の妨害を退けることができるからです。

そしてこのように自意識の妨害なく出来るという確信を「信仰」と言います。信仰は霊魂に刻印された形体を自意識の妨害なく宇宙が作用して願う通りに全て成すことを言います。すなわち皆さんが願えば宇宙のメカニズムが自ら作動して成されるようになる原理です。これが真の意味で「信仰」です。

最初は大変だとしても「出来るという確信」すなわち「信仰」が生まれれば皆さんはより多くのものを持つことができるようになります。そうかといって使いもしないものを無理に多く持てば、それは大切だという心のひもと愛する霊魂の力が作動しないのでいつか再び「無」の状態に戻っていきます。

ですから願うことを霊魂に刻印し現実化させ、そのように現実に誕生した全てのものが常に自分の体のように大切に愛するよう願います。このように貴重で大切だと考える心のひもが『サイパワー」の最も大きな秘密です。心が守ってこそ存在が光り輝くのです。

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