真の悟りとは

多くの人が悟りを、超自然的な力を用いた奇跡的な能力であるかのように考えている。そのように考える理由は、悟りがそれほど難しいからである。では、なぜ悟りはそれほど難しく、また、悟りを得ることによって一般の人たちと、どこが違ってくるのだろうか?

やさしく説明するために、我々の心の本質を、柔らかい布であるとしよう。我々が目の前の山を眺めると、平らな布はフィルムのように、見ている山の姿に変化する。そして、その山の姿が、まるで心のように感じられるようになる。

このように我々の心は、見て感じる、様々な像によって縫われることになる。そして我々は、その姿を普通、心であると感じている。

結局、真の心の本体は、即ち布それ自体なのである。悟りとは、心の像ではなく、心それ自体を認識することにある。

では、なぜそれほどまでに悟りは難しいのだろうか?それは、我々の考えや想念といったものが、まさに心という当体の上で起こる作用だからである。


今皆さんがこの文を読んで、「あぁ、なるほど!」と思ったのであれば、それは考え、即ち、知であって、悟りではない。悟りは、このように頭の中に像を描くことではない。

悟りが難しく、理にかなっていないような存在であり、真偽を確かめにくい理由は、まさに「認識越えの世界を、認識しなければならない」という問題があるからである。そして、今まで悟った多くの覚者たちは、そのように認識することのできる能力を「直感」と呼んだ。

悟ることのできない人たちは、悟りの世界が天上を飛んでいるようであるとか、世の中が光って見えるとかいうように、幻覚的な幻想によって話す。これらはまさに、考えが作り出した錯乱現象にすぎない。

では、真の悟りとはどのようなものなのだろうか?もちろん、真に悟った人は、その真偽を知ることができる。

この宇宙は、我々の目に見える形体の世界もあるが、目に見えない波動の世界もある。そして、今日の科学は、形体(粒子)は、即ち波動であるという事実も知っている。従って、我々の目に見える形体を切り崩していくと、結局、目に見えない波動となる。

だが、波動も即ち形体(粒子)であるので、我々の心の本体は、即ち波動のような粒子であると言うことができる。

「考え」というのは、その粒子の波動であると言えば、理解しやすいだろう。これは、我々の心だけでなく、宇宙もまた、同じメカニズムによって作用している。

普通、人々は、心の像が主となり、その像を心であると感じているが、悟った人は、心の本体を主とみなし、わき起こる現象に囚われることがない。

だが、布が心の当体であるように、布の上に縫われた山もまた、その本体は心の当体であるので、その像を偽物とは言わない。だが、その像に囚われないだけである。

昔、中国の洞山和尚は、次のように言った。

それを他の場所で探すな。そうすれば、私から逃げるだけである。

今や私一人で歩いてもどこでもそれと会うだろう。

それは今、私であるが、私は今、まさにそれではない。

これを悟ってこそ常に「そのような私」と真に結ばれる。

それを他の場所で探すな。そうすれば、私から逃げるだけである。

他の場所で探すようになると、結局、心の像のみがさらに増え、当体を探すことがより難しくなる。

今や私一人で歩いてもどこでもそれと会うだろう。

心の当体は、今この文を読んでいるその心の中にも、どこにでもあり、

それは今、私であるが、私は今、まさにそれではない。

文を読むのを少し止めて考えてみよう。私は誰なのか?という、その心の当体が即ち真の「それ」であるが、そうかといって、私は今誰なのか?というその形象が、即ち「それ」ではない。

これを悟ってこそ、常に「そのような私」と真に結ばれる。

この点をはっきり分かってこそ、当体を真に認識することができるのである。

では、多くの人が悟りを求めても、悟ることができないのは、なぜなのだろうか?

一つ目の理由は、自分のためにやるところにある。

我々人間が自分と感じている「自己」は、認識された像であり、その当体ではないので、自己のために知ろうとすれば、それがまた別の形象となるため決して悟ることはできない。偽りの悟りや、多くの人々が悟ることのできない最も大きな理由は、まさにこのためである。

二つ目の理由は、師匠がいなくても良いのだが、師匠がいるときには、師匠と一つにならなければならない。

大きく悟る人は、知ろうとする努力を通じて宇宙からその答えを探す。だが、師匠がいるときには、師匠が即ち答えであるので、師匠と一つにならなければならない。

師匠は当体を知り、当体を用いて生きている人である。従って、師匠の前で自己を下げれば、まさに師匠の当体を感じることができるようになる。このとき、師匠の当体から感じられる波動の力を昔のインド人たちは、「ラティハン」と言った。

師匠に背を向けようとする自己を下げることによって師匠から当体を感じることができるのである。結局、この当体は、宇宙本然の姿と同じように、心の形象が起こることによって、森羅万象が展開してゆくのである。

悟った人と、知によって知っている人の違いは、それぞれが表現する文を見れば分かる。知は、当体を一つの目標とみなし、一方向のみから話す。だが、悟った人の文は、その当体が話をする。理解しやすいように、私の詩を一つ見てみよう。

森羅万象が現れることのできるのは

永遠に変わることのない世界があるからである

永遠に変わることのない世界があるのは

絶え間なく動き、森羅万象を創るためである

森羅万象が現れることのできるのは

永遠に変わることのない世界があるからである

世の中の全ての変化は、永遠に変わることのないその本質の世界があるためである。

永遠に変わることのない世界があるのは

ここまでは皆さんでも書くことのできる表現である。ここで、悟っていない人たちは、大部分このように表現する。

森羅万象があり、それを守るためである

だが、悟るとまさに永遠に変わることのない世界が話をするようになる。

絶え間なく動き、森羅万象を創るためである

では、悟っていない臥輪と、悟った慧能の詩を見てみよう。

《臥輪》

臥輪は特別な技量があり

百千の思いを一息に断ち切るゆえに

どんな境遇に対しても心を動かすことがなく

心の中に菩提樹が日に日に育つ

《慧能》

慧能は特別な技量がなく

百千の思いを断つことができないゆえに

どんな境遇に対しても心を動かし

菩提樹がどうして育とうか

臥輪は特別な技量があり

百千の思いを一息に断ち切る

百千の思いを断ち切れるというのは、即ち、死にすぎない。

従って、六祖慧能は、

慧能は特別な技量がなく

百千の思いを断つことができない

と言った。そして、

どんな境遇に対しても心を動かすことがなく

心の中に菩提樹が日に日に育つ

心が動かず、当体を感じる感覚が日に日に育てば、それもまた、煩悩ではないだろうか?

そこで慧能は、次のように言った。

どんな境遇に対しても心を動かし

菩提樹がどうして育とうか

臥輪の詩は、本質の世界に向かうものであるが、慧能の詩は、本質の世界から出てきたものである。

結局、悟った人は、どのような想念がわき起こっても、そこに囚われ、当体を見失わない人なのである。

雲門禅師は、悟りについて次のように要約して話した。

【雲門三句】

1.天地をひっくり返して十分濡らす。

本質の世界が作用し、森羅万象が絶えず起こる。

2.全ての流れを一息に断ち切る。

悟った人は、その虚像に縛られることがなく、本質世界にいるので、一息に虚像の世界を断ち切ることができる。

3 . 波に乗って共に流れる。

本質もまた波動であるので、本質が動くままに(慈)、万物を創造する。

従って、悟った人が時として奇跡を起こすこともある。だが、そうかといって、これが即ち道ではない。

一般の人々は、想念で願う目的を行使するが、悟った人は、心の本質によって目的を行使するので、時としてその成果が大きく現れることもある。

だが、このようなことを目指して悟ろうとすれば、それは即ち虚像である自分のための道であるので、得ることのできない悟りとなってしまうのである。

庭の前に松の木

山は山、水は水

のように、在るがままの中に真理があるのである。

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